「寅さんも乗ってくれたよ。有名人の乗船客も多い」と語る杉浦さん
 松戸市下矢切と東京・葛飾柴又を結ぶ「矢切の渡し」。船頭の杉浦正雄さん(80・松戸市在住)は櫓(ろ)を握って56年。姿勢よく老齢を感じさせない若さの秘けつは、「川から吹くいい空気を吸っていること」と、元気いっぱいだ。
 千葉と東京の間を流れる江戸川。伊藤左千夫の小説『野菊の墓』の舞台として知られる矢切から、渥美清主演の映画『男はつらいよ』で有名な対岸の葛飾柴又まで、晴れた日には、杉浦さんの手漕ぎ舟が川幅およそ170メートルを約8分かけてゆったりと渡る。
 矢切の渡しは江戸時代初期、江戸川近郊の農民が対岸の農耕地に渡るために利用していた。現在は、江戸川唯一の渡し舟として「江戸情緒を残す渡し舟に乗りたい」と観光客が絶えない。ヒバリやユリカモメの声が美しく「日本の音風景100選」にも選ばれている。
 もともと私鉄の運転手をしていた杉浦さんは、父親が他界したことをきっかけに、舟の動かし方も知らないまま跡を継いだ。24歳で、3代目の船頭となった。
 「親の姿を見てたからかな。見よう見まねで舟を漕げたんだ。必死だったよ。自然相手の商売だし、人の命を預かっているし…。それに車を運転するよりずっと難しいんだから」
 それから半世紀以上、杉浦さんは櫓を漕ぎながら世相を見つめてきた。戦後、生活物資を調達するために何度も対岸を行き来する人たちを乗せた。嫁入り舟として花嫁を乗せたことも。一時、利用者数が落ち込んだこともあったが、細川たかしの歌謡曲『矢切の渡し』がヒットし、杉浦さんの職場は一躍有名に。大勢の観光客が利用するようになった。
 最近は、携帯電話に時の流れを感じるという。「昔のお客さんは風景を楽しんでいたのに、今は舟に乗っても携帯電話を離さず、ずっとおしゃべりしている人がいる」と苦笑い。
 それでも、ベテラン船頭の杉浦さんはサービス精神旺盛。櫓を漕ぎながら世間話をし、昔乗せたことのある浅草の喜劇俳優のエピソードなども披露している。興に乗り、リラックスしてきた一人から、「ねえ、船頭さん。『矢切の渡し』を歌ってよ」とリクエストされると、「いいよ、ご祝儀はずんでくれれば歌うよ。でも、100円の乗船料じゃ、漕ぐだけだね」と笑いを誘う。乗船客が笑顔で舟を降りていくのが嬉しい。「お客さんとの会話も楽しみだ」と杉浦さんはいう。
息子に負けぬ意気込み 「生涯現役」を貫く
昔と変わらぬ江戸川の川面 をゆったりと櫓をこいでいく「渡し船」=矢切の渡しで
 「今は息子と交代で舟を出しているんだ」と頼もしそうに4代目の勉さん(46)を見つめる。が、杉浦さんも負けてはいられない。「以前乗ってくれたお客さんに、『おじさん、まだ漕いでるの?』なんて言われるんだけど、俺は生涯現役だよ」と意気込んでいる。

【矢切の渡し】
 JR松戸駅から京成バスで終点「矢切高校」で降り、土手沿いを歩いて約15分。また北総開発鉄道矢切駅徒歩35分。営業時間は午前9時〜午後4時半。3月中旬〜11月末は毎日運行。12月〜3月上旬は土・日・祝日のみ運行。荒天の場合は運休。乗船料は片道大人100円、小学生以下50円。
 問い合わせは杉浦さんTEL047・363・9357