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ビデオカメラ歴は、定年退職以来で二十年になる。孫たちが大きくなったとき楽しめる記録を残しておいてやりたい、と思い立ったのがきっかけ。早速NHKビデオ作り教育講座に入門した。一年後の修了作品の評価が不評だったことに発奮、さらに講座に通
いつめて基礎を勉強した。そのときの指導教師が、映画「ひめゆりの塔」でカメラを担当した原一民氏。今も師弟を超えた親交が続いている。
とにかく頑張り屋である。昭和十九年、通信兵として召集されて満州へ。そのままシベリアで三年間抑留生活を送る。厳しい境遇の中で多くの戦友を失ったが、奇跡的に帰国できた。帰国したものの、共産主義に洗脳されている、とのいわれのないレッテルを貼られ復職できなかった。見かねた友人たちの計らいで臨時職員として元の会社に復職、働きに働き、ついたあだ名が「会社の婿」。
北海道に出張したときのこと、帰路に予定していた洞爺丸乗船が仕事の都合で一便遅れた。乗る予定だった洞爺丸は台風に巻き込まれて沈没、海老沢さんは一命を拾った。「帰宅してみたら自分の葬儀中でした」と笑う。シベリア抑留と洞爺丸沈没事故で二度も命拾い。海老沢さんは「幸運でした」と振り返る。
日立市内の小、中、高等学校の記念行事の記録はほとんど海老沢さんが手がけた。近隣市町村の公的行事から個人の小さな撮影依頼まで快く応じる。「手がけた作品は数え切れません」。そのすべてがボランティアだ。
数多い作品のなかで、心に残る作品がいくつかある。日立市の区画整理のため稲敷郡東町のゴルフ場に移植されることになった樹齢四百年のクスノキを追った作品は、その秋の茨城県芸術祭で優秀賞を受賞した。また、地元会瀬港の伝統的定置網漁法を記録した作品(同優秀賞受賞)も忘れられない作品だ。
「技術指導した女子高校で部員の作品が全国大会に入賞したときはわが事のようにうれしかった」と言う。行事撮影のために日参した工業高校では、「生徒に負けないほどの学業知識を覚えた」など思い出も多彩
だ。千葉県八千代市の高校には、マイカーを駆って早朝に出かけ、夜遅く帰ってくるという毎日だった。「肉体的にはつらかったけど、心は楽しかった」とほほ笑む海老沢さんの小柄な体は八十歳を感じさせないほど生気に溢れている。
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