本当の阿佐緒は世間知らずのおとなしいお嬢さん。数々の恋愛も自ら強く望んだわけではなく、後半生は流浪の生涯を強いられた気の毒な女性だった−。仙台市青葉区の仙台文学館で開かれている「原阿佐緒展」は、美ぼうと恋愛遍歴ばかりに目が向きがちな大和町出身の歌人の実像をこう紹介している。本展では、望郷の思いを募らせていた晩年の様子なども当時の写
真と併せて展示中だ。
原阿佐緒(1888〜1969)といえば、東北帝国大学教授の石原純(あつし)との「恋愛事件」を思い浮かべるのが大方だろう。当時33歳の阿佐緒は、7歳年上の妻子ある物理学者と男女の関係となり、これを新聞がセンセーショナルに書きたて、石原は教10年7月30日の「東京朝日新聞」は「女流歌人との恋に悶えて石原博士辞職す あの噂が立ってから責任を痛感して自宅に篭る 国宝とまで推賞された世界的学者の迷いごころ」と長い見出しで石原の辞職を報じた。
一方、阿佐緒に対しての見出しは「胸に刀傷 豪農の娘阿佐緒女史 天才肌の性格が手伝って男狂いに三人の隠し子」と扇動的だ。
記事全体の流れも“高名な大学教授を誘惑した気の多い女流歌人”の構図で、ほかのメディアもこれに追随した。「奔放な女」、「悪女」のレッテルが阿佐緒に張られた。
7年前、彼女の半生を描いたテレビドラマが放映されたが、これも従来の阿佐緒像を覆すまでのものではなく、阿佐緒は今も芳しくない風評のままでいる。
今回、同展を開くに際し、仙台文学館は石原との一件を含めて、郷土の歌人の足跡をあらためて見直した。
阿佐緒と石原の関係は実際のところは「石原の方が積極的で、阿佐緒はその激しい求愛に引きずられてしまったのでは」と田中朋子学芸員は話している。自分の求愛にためらい続ける阿佐緒に対し、石原は未遂に終わったものの自殺を企ててまで思いを遂げようとした。「裕福な家の一人娘として育ち、まったく世事に疎かった阿佐緒は、そうした石原のいちずさに負けてしまったのでは」(田中学芸員)。
阿佐緒が石原と知り合ったのは、彼女が30歳前後のことだ。石原が自宅で開いていた歌会に阿佐緒も参加したのが交流の始まりだった。石原は大学教授であるとともに、斉藤茂吉らと歌誌「アララギ」を創刊するなど、中央歌壇でも有力な歌人の一人で、仙台の歌壇をリードする存在だった。
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晩年の原阿佐緒
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阿佐緒も新進の歌人として名を知られるようになっていた。
明治42年、21歳のとき「女子文壇」に投稿した歌が与謝野晶子に認められたのが、歌人としての出発だった。
この涙つひに我が身を沈むべき海とならむを思ひぬ
はじめ
女子の文学登竜門といわれた投稿雑誌「女子文壇」4月号「和歌」の欄で、この一首は第一席の天賞を射止める。「うねるように流麗だが、悲傷感を漂わせた歌」と歌人で阿佐緒を研究する秋山佐和子さんはこの一首を評する。「海のようにあふれる涙は乙女の感傷などではなく、現実の嘆きから発した思いである」(秋山さん)。
実際、阿佐緒のこのころの身の上は平たんではなかった。2年前に長男千秋を出産したものの、翌年千秋の父親で最初の夫小原要逸(よういつ)と離婚、出産は要逸から無理に関係を求められた末のもので、阿佐緒は妻子ある小原の子を身ごもった罪の意識から、自殺を企てたが、果
たせなかった。先の東京朝日新聞の見出し「胸に刀傷」とは、このとき自ら負ったもののようだ。後年に刊行した第一歌集「涙痕(るいこん)」に、
われとわが胸の傷より血とともにたえず流るるかなしみの歌
とある。夫婦の間は結婚当初から破たんしていた。
しかし、歌人阿佐緒の才能は、ここから結実していく。「アララギ」「スバル」「青鞜」など中央の歌誌や雑誌に短歌を発表、アララギには同人として入社し、斉藤茂吉や島木赤彦らに師事した。第二歌集「白木椋(しろむくげ)」も出版する。一方、仙台の文芸誌でも活躍し、その華やかな容姿と相まって地元文学サロンのマドンナとなっていた。
私生活では25歳で、画家志望の美術教師の庄子勇と再婚、二男の保美をもうけるが、6年後には離婚する。原因は夫のしっとではなかったと推測されている。阿佐緒の自伝「黒い絵具」には売れない画家で夫の勇吉(庄子勇)が、歌人として脚光を浴びる妻に対して激しくしっとする場面
が描かれている。また、同文学館で所蔵し、今回初公開の歌壇ノートの一冊には、明らかに阿佐緒のものとは異なる筆跡で次のような文章が差し挟んであった。「何卒僕の心に不快を感ずるような歌は詠まないで下され−」。阿佐緒に作歌を禁じた人物は勇以外に考えられない、と同館では考えている。
人妻はかなし歌よむことをさえみそかごとするごとく恐るる(白木椋)
「みそかごと」とは、人に隠れて何かをすることだ。
阿佐緒は2人の子どもを郷里に残し、石原とともに千葉県保田の新居「愛日荘」に移り住む。「悪女」のレッテルは彼女の文学活動の拠点であった「アララギ」も奪った。斉藤茂吉、島木赤彦などの面
々も阿佐緒の行動を不行状と非難し、歌壇からも締め出した。
「前途有望な物理学者をたぶらかした女流歌人」の非難の嵐のなかで唯一、弁護に回ったのは生涯の友人で「アララギ」の仲間でもあった歌人の三ヶ島葭子(しげこ)だけだった。葭子は阿佐緒をかばう文章を「婦人公論」、「新家庭」に発表するが、それがもとでアララギを破門となる。歌人と呼ばれる芸術家さえ世人と変わらぬ
対応に阿佐緒はがく然とする。
晩年「宮床に帰りたい」が口癖
石原と暮らす愛日荘は保田の高台にあった。当時としては、しゃれた洋風の造りだった。 阿佐緒は恋愛事件の7年後、ここを夫にも告げず郷里の宮床へ帰り、二度と戻ることはなかった。帰省も許されぬ
暮らしに疲れ果てたのか、それとももっと何かがあったのか、彼女は保田での7年間をあまり人に語ることはなかった。
吾がために死なむと云いし男らのみなながらへむおもしろきかな(涙痕)
阿佐緒は81歳で亡くなる。明治21年黒川郡宮床村(現大和町宮床)で生まれ、家は塩やこうじを扱い、多くの田畑を所有するこの地方でも屈指の商家だった。「おごさん(お嬢さん)」と呼ばれて育った一人娘は、絵や俳諧を好んだ父幸松の血を受け継いだらしい。
保田出奔の大正10年、第四歌集「うす雲」、翌年に「阿佐緒抒情歌集」を出すが、以後目立った文学活動は見当たらず「歌わぬ
歌人」となってしまった。
この間、東京や大阪で酒場勤めをしたり、映画にも出演したりしたが、うまくはいかなかった。
また、63歳で宮床の家や田畑を失う。長男の千秋が監督した映画が失敗し、その費用を肩代わりしたためだった。郷里にもいられなくなった阿佐緒は二男で俳優・故原保美の東京都杉並区の家に身を寄せる。以後、そこで初めて平穏な日々を過ごすが「宮床に帰りたい」が晩年の口癖だった。
長年にわたって阿佐緒の生涯をたどっている作家の小野勝美は阿佐緒展に寄せた一文のなかで、この女流歌人について次のように書いている。
「阿佐緒という歌人は、ある意味でかなり無頓着、周りの反応を感知できないような性格の人でもあったらしい。それが誤解を増殖させる結果
になったのではあるまいか。利発ながら人付き合いの苦手な塩屋(原家の屋号)のおごさんは結局、わたしは間違った道を歩んでいる、と思いながらも軌道修正してくれる友もなく、本当に最後までこんなはずではなかった、と思っていたのではあるまいか。原阿佐緒という歌人を思うとき、わたしには華やかさのイメージはない」。
また、田中学芸員は「もし、石原教授との件が現代のことであったら、阿佐緒があんなに一方的に非難されることはなかったと思う。まだ男尊女卑の風潮が強かった当時は、阿佐緒の行動は女として許されるべきことではなかった。彼女が今に生きていたら、もっと強く、そして輝いていられたと思う」と話している。
同展は18日まで開かれている。仙台文学館はTEL022・271・3020
形だけの披露宴間もなく離婚
日本画を学ぶため、東京の日本女子美術学校に入学した阿佐緒は英語教師だった小原要逸と出会う。帝大出の小原は外国詩の翻訳も手掛けていた。二人は文学の話を交わすうち次第に親しくなっていく。
ある時、小原が強引に阿佐緒に迫り、妊娠させてしまう。妻子ある教師の子を宿してしまったことから18歳の阿佐緒は自殺を図ったが未遂に終わる。翌年長男千秋を出産、その1年後、小原、千秋と一緒に宮床に帰り、形ばかりの披露宴を開くが、小原とは間もなく離婚した。