「青葉城恋唄」は5分でできた。歌詞に導かれるようにメロディーがわき出た。27年前、28歳の夏。「とにかく詩の完成度が素晴らしくて」。出来上がった歌はピンク・レディーなど、世相を意識したリズミカルなものとは、懸け離れた誰もが口ずさめるような曲だった。昭和53年5月、キングレコードから発売され、半年で売り上げ100万枚のミリオンセラーとなった。
「青葉城恋唄」の詩は、当時さとうがディスクジョッキーを担当していたNHK仙台の「FMリクエストアワー」に寄せられたものだ。届いた詩に彼が曲を付ける趣旨で公募していた。さとうは仙台のライブハウスを中心に東北6県でコンサート活動を続け、昭和51年にはアルバム「バラ色の人生」を自主制作していたが、全国的に名を知られるフォークソングの歌い手ではなかった。
詩を寄せた星間船一は「青葉城恋唄」を含む3編を送った。後日談だが、星間は「青葉城恋唄」を演歌と思って作詞していた、という。内山田洋とクール・ファイブの前川清が歌い手のイメージだった。いわゆる「ご当地ソング」のつもりであった。
さとうはそのひとつ「青葉城恋唄」と命名された詩に引かれた。原稿用紙のマス目から忘れられているきれいな日本語が響いていた。
曲を付けるため長町のアパートの一室に持ち帰り、家族が寝静まるのを待った。
さとうは自らの曲作りについて「作りたいものだけを作る。ヒット曲は出したいが、時代におもねようとは思わない」と語る。恋唄もそうだったが、あくせくすることに飽き、ここらで一服したいと思い始めた世相と図らずも合致した。
そしてもうひとつの幸運に恵まれた。「地方の時代」である。
東京ばかりじゃない。Uターンという言葉が新聞やテレビで盛んに使われ「青葉城恋唄」が話題になり始めると、マスコミはこの歌の出自も併せて書きたてた。彼もまたUターン組の一人だった。
さとうは東北学院大学を昭和47年に卒業後、上京してサラリーマンとなったが、会社には10カ月勤めただけで、仙台に戻った経歴を持っていた。大学時代に作った「岩尾別
旅情」がラジオから流れてきたのを聞き、音楽への思いが抑えきれなくなったのだという。
しかし、音楽を仕事とするなら、東京に残ったほうが好都合。なのに彼は仙台を選んだ。
「自分としてはごく自然な成り行きだった。そのほかは考えられなかった」
東京と対峙(たいじ)しようとする気負いはなかった。いつもマイペースである。
「青葉城恋唄」はその後も歌い継がれ「県歌」となった。
さとうは昨年デビュー25周年の節目を迎え、仙台市内各地で記念コンサートを開いた。「青葉城恋唄」には会場に響く拍手が一段と高鳴る。
─あなたにとって「青葉城恋唄」とはなんでしょう?
「もう一人のさとう宗幸。分身です」
その分身がたまらなくうっとうしいときもあった。どこへ行っても恋唄がしゃしゃり出る。生身の自分にはもっと聞いてほしい曲もある、と思いもしたが、今は仲の良い双子の弟のようである。この弟がいなければ現在もステージに立つ自分はいないかもしれない。
新曲はいつも「青葉城恋唄」を超えるヒットを狙って出す。曲調は27年前とさして変わらない。狙いはいまだに外れているが、自分が納得しているものだけを出す。シンガー・ソングライターとしての誇りだ。
平成7年ヒロシマ・ナガサキ被爆50周年「愛と平和のコンサート」で記念曲を作曲、平成9年には「古関裕而音楽賞」で自作の「欅伝説」(作詞いではく)を歌い金賞を受賞する。
また、チャリティー活動にも取り組み「骨髄バンクチャリティーコンサート」、「いのちのコンサート」は定期コンサートのひとつ。おととし8月には群馬県草津市の国立ハンセン病治療所「栗生楽泉園」でコンサートを開催した。
昭和61年、法務省から任命された保護司の仕事も継続中、関連の啓もう団体「BBS」の広報係を自任する。
県民になじむ 宗さんの愛称
9年前から、地元テレビ局生ワイド番組のパーソナリティーとして週に5日、夕方のお茶の間に顔を出す。「宗さん」の愛称もすっかり板についた。親友の伊奈かっぺいとのジョイントコンサートは仕事を忘れる楽しさ。
ステージは年間50件ほど。いつも和やかな雰囲気のうちに進む。「マンネリ」の声もあるが「マンネリのどこが悪いの」とこのときだけはやや気色ばむ。
これからも時流に流されずマイペース。娘が2人。孫も2人。5歳の孫はアパートの一室で妻と寝息を立てていたあのときの娘と同じ年ごろである。