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| ストリート・ジャズとはわれわれの造語。ジャズを超えた自由な音楽という意味、と尾崎さん |
演奏者は空の下。地べたに立ってやる。取り囲む人にも観客席はない。あえてそうしている。コンサートではない。出演料、入場料なし。祭りだからだ。昨年は2日間で54万人が聴きに来た。
今年の開催は9月11日、12日。例年通りケヤキ並木が美しい定禅寺通をはじめ、仙台の中心街で開かれる。14回目となる今回の参加バンドは全国各地から前回より80組多い660組。北海道、沖縄のバンドもある。88会場に分かれ、ここ一番の演奏を繰り広げる。人出も天気がよければ昨年を上回りそうだ。
JR東日本もこのフェスティバルのための臨時便を今年初めて出す。両日で計7本、福島駅と郡山駅それに県北の小牛田駅を仙台駅とそれぞれ結ぶ。
回を重ねるごとに上昇線を描くジャズ・フェスの人気の理由を尾崎行彦は音楽なら何でもあり、の祭典だから、と。ジャズ、ロック、ラテン、民謡もある。若者だけのものではない。実際、演奏者も聴く側も老若男女入り混じる。そうしたフェスティバルの光景に3年前仙台市が「同市都市景観大賞」を贈った。フェスティバルの様子が街の景観となった。それはこの祭典を始めた当初から実行委員会の面々が語り合ってきたことでもあった。「演奏者も聴く人も街の中に溶け込んで街全体が音楽を奏でているようなものにしたい」
尾崎自身がフェスティバルの運営に手ごたえを実感できたのは、昨年のあの光景を目にしてからだ。
初めて通行止めとなった定禅寺通は、いくつかの会場の演奏を聴くため集まった聴衆が道幅いっぱいにあふれていた。普段は車がせわしなく行き交う車道も、この日は、広げたゴザに座って弁当を食べながら、体でリズムをとって聴き入る人などに占領されていた。
聴衆のざわめきが、演奏の器楽曲に溶解し、通り自体が楽器のように鳴っていた。とっさに「古い表現かもしれないが、これは音楽のための解放区だと思った」。しばらくして、神社の縁日の境内ともみえた。
実行委員会の委員となったのは、12年前の第2回から。委員長は「時間の融通が利く自由業という点を見込まれて」一昨年から引き受けているが、委員、委員長を通じてやってきたことに、そう間違いはなかった、と振り返ることができるようになったのは、近年のことである。
今、彼のもとには村おこしや街づくりを担当する役場の職員や関係者が引きも切らず訪ねてくる。行政の力を借りずにやってきた、尾崎らのノウハウを教えてほしい、というのだ。
本当の「仙台っ子」に
積極的に運営に携わる
そのなかで、フェスティバルの運営に欠かせないボランティアをどう集めているのか、質問がよく出る。開催には1日当たり400人のボランティアが必要だが、100人は一般募集の市民、300人は専門学校の学生が担う。音楽、美術イベント企画、照明などを勉強している学生たちだが、彼らには、ここでの経験が生きた学習の場となっている。
フェスティバルが生み出す経済効果についても聞かれる。分からないと答える。そうしたことには興味がない。
札幌市生まれ。絵描きになりたくて岩手の大学に入学した。卒業後、仙台の美術関係の専門学校に就職、先の学生ボランティアのなかにはこの学校の学生もいる。
27歳で学校を辞め、定禅寺通沿いにアトリエを構える。その後、結婚もし、子どももできたが、札幌への思いも残る。仙台人となるためのけじめをつけようと、知人のいた実行委員会に仲間入りした。前年生まれたばかりの音楽祭の運営に携わることで仙台の人に変われるのでは、と考えたからだ。
今は周囲も認める「仙台っ子」。インタビューにも冗舌に答え、自ら「話し好き」と笑う。本業は絵から版画へと重点を移し、身の回りのものを題材に彫り続けている。制作中の小さな木工版画は「しょうゆ差し」。もののあるがままの形を忠実に写し取るように心掛けている。
「版画のしょうゆ差しは私のモノを彫ったものですが、作品を手にした人は見ているうちにだんだんと自分のしょうゆ差しを彫ったのだと思ってくれるようになったら」
芸術家らしいこだわりもみせる。
フェスティバルを通じ、仙台が音楽あふれる「楽都」になったらいい。いつも街のどこかで、誰かが演奏をしていてそれが当たり前の街。
長い白髪と丸顔。誰が名付けたわけでもなく、いつの間にか愛称が鉄腕アトムの「お茶の水博士」。昨年のフェスティバルのフィナーレでは委員長の労をねぎらって、演奏者全員がアトムのテーマソングを演奏してくれた。
疲れがいっぺんに吹き飛んだ。
仙台市国見町在住。妻と子どもが2人。下の中学2年生の娘は「どうやら絵描きになりたいようだ」と目を細める。(敬称略)