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「大みそかの日の除夜の鐘がきれいなおとで響いているとうれしいですよ」と鈴木さん(鳩ヶ谷市源永寺の鈴木さんが手掛けた釣り鐘の前で)
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「現代の名工」をはじめ「黄綬褒章」「勲六等瑞宝章」など数々の受章歴を誇る川口市元郷の鋳物師・鈴木文吾さん(83)。さいたま市大宮氷川神社や秩父市秩父神社など、関東一円の由緒ある寺社の釣り鐘や天水鉢などを造り続けて70年、現場を離れた現在も川口の鋳物文化の普及に力を注ぐ。父の死を乗り越えて造り上げた東京・国立競技場の聖火台の物語は、半世紀を過ぎた今も多くの人に語り継がれ、「伝説の鋳物師」と称される鈴木さんの原点となった。
「弟子にしてくんねえか。おやじみてえな鋳物師の仕事をしてえんだ―」。鈴木さんが土下座をして鋳物師だった父親に弟子入りを懇願したのは12歳の時。鈴木さんの父親・萬之助さんは茨城県水戸藩御用の鋳物師の家柄。上野の西郷隆盛像の制作にも協力した全国でも高名な鋳物師だったという。幼少から父親の仕事を間近で見てきた鈴木さんにとって、鋳物師の仕事は興味深いものだったそうだ。
そんな鈴木さん親子の所に国立競技場の聖火台の話が舞い込んだのは1957(昭和32)年11月のこと。64年の東京オリンピックに先駆けて行われる58年のアジア競技大会のためだった。依頼を受けてから残された時間は3カ月。さすがにどんな腕利きの職人でも無理だと考えられていた。「『お前がやる気があるならこの仕事をやるぞ』とおやじが言ってきたの。お国の仕事をできるのは大変名誉なこと。金銭的には全く採算が合わないが、鋳物師の仕事はお金じゃない。おやじと2人で『必ずこの仕事を成し遂げよう』と誓い合いました」
聖火台に亡き父の名刻む
造り始めて2カ月後、いよいよ溶解した液状の鉄を鋳物の中に流し込む最後の「湯入れ」と呼ばれる工程にたどり着く。しかしここでアクシデント発生。溶けた鉄が噴き出し、湯入れは大失敗。作業は一からすべてやり直しになってしまった。
68歳という高齢にもかかわらず約2カ月間、寝食を惜しんで働き続けた父親はあまりのショックで寝込むように。この時残された時間はあと1カ月。「川口の名誉に懸けて、また初めてオリンピックを開催するお国の名誉に懸けて、どんなことがあってもわたしが1人で造り上げなければならない」。国の威信を懸けた計り知れないプレッシャーの中、壮絶な覚悟で鈴木さんは制作に取り掛かった。
父親の訃報(ふほう)を突然耳にしたのは作業を始めて1週間後のこと。作業着のまま真っ黒な顔で自転車に飛び乗り、自宅へ戻ると、ちょうど自宅から霊きゅう車が出て行く瞬間だった。「おやじが死んだのか―」。あふれる涙もそのままに鈴木さんはその後も作業場に戻り、制作を続行。心血を注いでようやく念願の聖火台を完成させた。
「川口の鋳物の焼き方の一つに『惣型法』と呼ばれるものがあるの。粘土と砂利を混ぜ合わせて型を造り、900度で焼いてから冷まして固いれんが状にする技法で、字は『物』に『心』で『惣』って書くの。おやじは『物を造るのには心が一番大事。自分の心がしっかりしてないと良い作品なんかできるわけない。心は羅針盤なんだ』が口癖だった。たとえ親が死んだ時でも、気持ちをしっかりさせて心を込めて仕事を全うする。これはおやじがわたしに教えてくれた職人魂」
毎年10月10日には父親の墓参りのつもりで聖火台を磨きに国立競技場へ足を運ぶ。完成した直径2・1メートル、重さ2・6トンの聖火台には自分の名前ではなく、父親の名前を刻み込んだ。「この聖火台はわたしではなくおやじが造らせてくれたものだから」。今でもこの聖火台の中に父の魂が宿っていると信じて疑わない。
80歳を越え、息子に現場を譲った現在は、市内の鋳金工芸教室で昔ながらの惣型法による茶釜造りを指導する。「川口の鋳物の火は消してはならない。後世に伝えるのもわたしの仕事だから」
5年前に最愛の妻を亡くし、現在は1人暮らし。2人の孫にも恵まれた。「すごくねえ、偶然なことがあるんだよ」。鈴木さんは笑顔でぽつりと話す。「5歳になるひ孫の誕生日は、東京オリンピックが開催された10月10日なの。何とも奇妙な巡り合わせ。これも何かの運命かな」。そう話すと厳しい職人の眼光が、優しいおじいちゃんのまなざしに変わった。
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