教え子たちが手作りしてくれた花笠を持って語る河村さん=都内の自宅で
 音楽教育と福祉活動に四十数年間、その間にソプラノ歌手としても活躍した千葉敬愛短期大学名誉教授の河村順子さんは、高齢者施設で歌われる愛唱歌の全国調査を行った。また車椅子上で踊る「花笠音頭」のユニークな介護方法を生み出し、高齢者の心の癒しに効果 をあげて、注目されている。

 色とりどりの造花を飾った紙皿の花笠を持って、痴呆の人も車椅子に座った人もゆっくりとしたテンポで花笠音頭を踊る。誰もがこの民謡に呼び起こされる、お祭りなどの楽しい思い出と共に…。笠を左右に振ってリズムをとっていると、次第に笑顔があふれ、動きも機敏になってくる。
 音楽が介護にもたらす効果に着目し、花笠音頭を用いたユニークな方法を考案したのは河村順子さん。「始めは笠を持てず、後ろから介護士に補助してもらう人も多いです。でも、一カ月後にまた訪ねると動きが良くなっていますし、持てなかった人も持てるようになっています」学生や幼稚園PTAの協力で作った花笠を施設内で机の上に並べると、痴呆の人たちもきれいな笠から取っていく。「踊りが終わってもすぐには返してもらえないこともあります」
 平成九年には日本舞踊の家元の薦めで本場・山形県まで行って花笠音頭を正式に学び、花笠パレードに参加。写 真には七十歳とは思えないほどはつらつと踊る姿が写っていた。
 昭和二十五年に武蔵野音楽学校声楽科を卒業し、子鳩会児童合唱団の主宰や指導、数百枚ものレコード吹き込みや舞台、放送など多忙な活動をしていた河村さんは昭和三十五年、知人に紹介され千葉県保田の養護施設を見学した。そこで、知的障害者の小学生三十人が『赤胴鈴之助』を歌ってくれた。顔を真っ赤にはちきれんばかりの声で。しかし歌詞もリズムも音程もしっかりとしていた。その後、二、三曲一緒に歌ったが、帰り道「どこが知的障害なのか…」と考えてしまったという。「驚きましたね。自分が好きで馴染みのある曲は、自然と心に入っていて頭脳も体もしっかりさせるのでしょうね」
 そして三年後、母校の推薦でオーストリア・ザルツブルグのオルフ研究所設立式典に参列・研修した時、オルフ教授の講演「音楽が人間の心身にかかわる時の接点について」と指導に感動し、介護に役立つ音楽に興味を抱くようになった。
 幼稚園・小学校の教員養成大学である千葉敬愛短期大学で助教授として勤め始めたのは昭和四十一年。しかし平成三年から実母が寝たきりとなり、教授を続けながらも妹と介護に努める。そして、この母親の介護が、体が不自由な人も痴呆の人も踊れる花笠音頭を思いつくきっかけになった。
 母親が入院した老人病院に出向いたある日、ボランティアの歌と踊りの「花笠音頭」が始まると、それまでは聞くだけだった入所者が踊らんばかりに車椅子を叩いて歌いだしたのである。「その時、オルフ研究所でフォークダンスが行われた際、車椅子の人が率先して参加し、リズムをとったことを思い出し、『花笠音頭』も同じように車椅子の上で出来ると考えたのです」
 平成八年には千葉敬愛短期大学を定年退職し、名誉教授になった。しかし母の介護を考えて秋草学園福祉教育専門学校に願い出て再就職。「音楽レクリエーション」を担当することになった。
 その頃、母親の介護をしていた妹から「お母様は寝られるとき、『炭坑節』や『佐渡おけさ』などの民謡が子守歌代わりになっている」と聞いて、「改めて日野原重明先生方の著書にあった、『高齢になるほど、幼児期に返る』という言葉の数々を思い出しました」と河村さん。
 そして日本舞踊の家元と共に考案した「花笠音頭」の踊りを介護施設で実演してみると好評で、依頼が続々を来るようになった。
 また河村さんと共同研究者は、「全国特養老人施設の音楽的実態調査」として、平成九年から三年間、全国の特養施設三百数十カ所、約一万八千人(六十歳〜百歳)の入所者に自ら歌える愛唱歌は何かを調査した。「九十代は唱歌中心、八十代から童謡、七十代から歌謡曲というようにそれぞれの時代を反映しているのが面 白いです」そして河村さんの学生たちが、介護実習にその結果を用い、音楽がいかに介護に役立ったかを実証するリポートが数多く提出された。
 ある実習生の体験談を紹介すると、
 「オムツ介助の時、私は寮母さんのように手際よくできなくて…それである日《もしもしかめよ、かめさんよ…》と歌ったら、利用者自身で続きを四番まで歌ってくれて、すごく機嫌がよくなり、楽にオムツ替えが出来ました」
 河村さんは退職した今でも、講義や講演、執筆を依頼されたりと多忙な毎日を送っている。「“仕事中毒”と言われます」と笑う、少女のような笑顔が印象的だった。