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「東北出身者にとって上野駅は心のふるさとです」と井沢さん
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4月2日浅草公会堂
昭和30年代、東北から集団就職列車で上京した若者たちにとって上野駅は、心のふるさとだった。この「上野駅」を称えようと歌手井沢八郎さん(66)、丸山祐樹JR上野駅長、吉住弘台東区長らが当時、集団就職した世代に呼び掛け4月2日(火)、浅草公会堂で『ああ上野駅2004』コンサートを開催することになった。井沢さんの思い出とコンサートの趣旨について聞いた。
井沢さんは青森県出身。集団就職ではなかったが、昭和32年春、プロ歌手への大きな夢と志を抱いて上京した。「ああ上野駅」を絶唱するまでの道のりははるかに遠く、苦節の連続だった。
小学校時代からいじめられ、傷ついた日々が続いたが、歌うことだけは得意だった。岩木山を臨む裏畑でよく歌って気持ちを慰めたという。
小学6年のとき、年齢をごまかしてNHKのど自慢予選に挑戦した。審査員の中に学校長がいて、にらまれながら「上海帰りのリル」を歌った。鐘は2つだった。校長からまだ男と女の気持ちを歌える年ではないと諭された。2年後、津村謙の「待ちましょう」を歌い見事合格。それからは県内あちこちののど自慢で優勝し、県内で知らぬ
ものがないほどに。夜遅く優勝旗を担いで帰宅したときの快感はいまも忘れられない。優勝旗がりんご箱いっぱいになった。
中学校卒業後、弘前市でバンドマン見習いと専属歌手となったが、しょせん東北の片隅にしか過ぎない。たまたま地方巡業にきたダンシングチームに依頼して東京の作曲家を紹介してもらい、上京を決意した。
井沢さんは上京の旅費を捻出(ねんしゅつ)するのに米6俵を精米所に持ち込んで換金したそうだ。上京して作曲家・大沢浄二氏を訪ねたが、昼は歌のレッスン、夜はジャズのベース奏者として生計を立てた。といっても、当時は手取り足取り教えてくれるわけではない。間違っては殴られ、遅いといっては後ろからけ飛ばされ、毎日恥をかく世界。楽譜も満足に読めなかったころだから大変な修業だった。今、思い返してみると、それを乗り越えたからこそ強く育ったのだ。ギャラの安い浅草より高給な銀座でのデビューへ何度あこがれたことか。
集団就職生の心を歌う
6年目にして念願のデビュー曲「男船」を東芝レコードから出し、半年で50万枚のヒットとなった。そして翌年、関口義明作詞、荒井英一作曲「ああ上野駅」が大ヒットとなった。当時、この歌は、ほかの歌手に歌わせようという話もあったが、『いや青森出身の井沢こそ集団就職生たちの気持ちを歌えるのではないか』と強い推薦があったという。苦しい修業時代を心から励ましてくれるメロディー。夢と希望と不安を抱えて上野駅に立ったときの気持ちは井沢さんにとっても同じだった。集団就職生と心をひとつにして歌える歌「ああ上野駅」。同郷の淡谷のり子さんはよくアドバイスしてくれた。「メロディーと心はひとつ。舞台に立つときは3時間前から飲食を控え心の準備をすること」。また、藤山一郎さんからは「演歌だけでは声が衰える。タンゴでもカンツォーネでも、ほかのジャンルの歌にも興味を持って歌ったり、聞いたりするように」と教わった。
井沢さんは突然、「ソルマーレルチカ ラ ストロダルジェント プラーチーダェ ロンダー」とイタリア語で〈サンタルチア〉を歌い出し、朗々と1曲をこなした。インタビューの合間にほかの懐かしい歌も歌った。
クラシックはショパンが好きという。歌の芸域を広げてこそ「ああ上野駅」があったのだ。