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トレードマークの髪型をほどくと、髪の長さはふくらはぎまであるというマミ川崎さん。
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日本にフラワーデザインという新しい花文化をスタートさせて42年。新しい時代を切り開いてきたフラワーデザイナーのマミ川崎さん(72)。絶えず斬新な造形を生み出し、多くの人々を魅了する。国内外に350の教室を持つ一大企業・マミフラワーデザインスクール(大田区山王)の経営者、教育者、そしてデザイナーとして創作意欲は衰えることを知らない。このほど大丸東京店で開催されたスクールの作品展「マミフラワーデザイン展-花いつも-」でにぎわう会場にマミさんを訪ねた。
クモの巣のように張り巡らせたフジづるで編んだタペストリー。赤と濃いピンク色の花々でデザインされた造形物が垣間見える。それは妖艶(ようえん)な女性の姿を想起させる。会場に展示してあったマミさんの作品=2面に写真。「期せずして美しい日本の着物を脱いだり着たりしている動きのある女性の姿になったの」と、マミさんが説明してくれた。マミさんの求める日本らしいフラワーデザインである。
「私は日本人だから、日本の生活に合ったデザインを考えるのが当たり前だと思います。外国のまねをする時代ではありません。今では、外国からもマミフラワーは非常にユニークだから教えてほしいと依頼もあります。でも、まねではなく自分たちの国ならではのデザインを模索すべきです」と言う。
「誰でもできることをするのは面白くないです。開拓することが好きです」
その気質は故郷・北海道の環境と、両親の厳しい教育によるものだという。高校卒業後、父親の勧めでアメリカのミズーリバレー大学に留学。戦後、犬養道子に次ぐ2番目の日本人女性留学生だった。始めは英語もほとんど話せず、必死で勉強し、多くの苦労と闘った。
定年後も創造を
「高校まで戦時中の教育を受けていたから『アメリカに負けてなるものか』という気持ちを強く持っていました。美しい祖国・日本を愛していましたし、恋をしても日本に帰る気持ちは変わりませんでした」。大学での専攻は教育学で教師を目指していたが、帰国後は縁あって産経新聞社の社長秘書を務める。しかしお茶くみなどの仕事に飽き足らず、前田久吉社長(当時)の勧めで婦人欄担当の記者に転身。また、川崎景民氏と結婚、出産。義母やお手伝いさんの協力もあって仕事と家庭を両立させた。その後専業主婦になるも、「うちで何かできることはないだろうか」と、アメリカ留学中のアルバイト先の生花店で触れたフラワーデザインに取り組む。斬新さから週刊誌「女性自身」に取り上げられた。本名の川崎真美子も“マミ川崎“なり、“フラワーデザイン”という言葉もその時日本に生まれた。教えるつもりはなかったのに、6000通の手紙が届くという大反響で、教えを請う人たちが殺到。戦後の生活習慣の変化の気運も後押ししてか、日本初のフラワーデザインスクールとフラワーデザイナー「マミ川崎」が62年誕生した。
教えるといっても、アルバイトで学んだのはブーケやコサージュを作る簡単なもの。花の知識を学ぶため再度留学する。「テーブルの上に花を飾ったり、男性が女性に花をプレゼントしたり、花が生活に密着すればいいな」と、日本の今の生活に合う、“マミ流“のデザインを模索した。伝統的な華道を支持する人たちからの批判もあったが、瞬く間に教室は拡大した。スクールのテキストに教え方は載っていない。無から自分ならではのものを作り出す、クリエーティビティーのおもしろさを知る教育をしている。「楽しくレッスンしながら、人のまねができない人生も、クリエーティブなものだということに気付いてほしい」。大学で学んだ教育学が生かされた。
毎朝ぞうきんがけ
健康のためには薄味の料理を自分で作り、朝晩カスピ海ヨーグルトをたっぷり食べている。毎朝ダイニングルームの床をぞうきんがけし、指先を使うと脳が活性化するからと時間が空くとふきんを縫う。坂の多い教室と自宅の往復も電動自転車をこぐ。また「人に迷惑を掛けるのは嫌」と目が見えなくなる時に備えて、真っ暗な中や目をつぶって動作が行えるように訓練していると楽しそうに言うから驚く。
「『定年』におびえるなんてつまらない。これまで得てきた知識とノウハウを生かして、定年の無い新しい仕事を作って始めればいいと思います」と定年後をクリエーティブに活動することを勧める。「期せずして長男・景太と二男・景介がスクールの教育理念に賛同して継いでくれました。2人は『そこにいてくれるだけでいい』と言ってくれて、楽になりましたが私は生来、何でも自分でやる“きかん気“。甘えてしまったら生きている実感が無くなるし、ボケてしまう。私に『定年』はないわ」と言い切った。