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自らの戦争体験をつづった自分史を手に「戦争を語り継ぐことが大切」と訴える鈴木政子さん
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自分史講師が訴え
藤沢市の鈴木政子さん
来月十五日で五十八回目の終戦記念日を迎える。多数の犠牲者を出した太平洋戦争終結から半世紀以上がたつ。戦争を体験した世代は高齢化し、年々少なくなる一方で、戦争を知らない世代が増えている。藤沢市の自分史教室講師、鈴木政子さん(六八)は戦争を知る一人だ。鈴木さんは「私たちが戦争を知る最後の世代。日本が二度と戦争の道に進まないためにも、私たちの世代がそれぞれの体験を若い人たちに語り継ぐことが大切」と戦争体験世代に訴えている。
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敗戦そして収容生活へ
鈴木さんは満州(現在の中国東北部)で終戦を迎えた。教師をしていた父の転勤で故郷の福島県喜多方から一家で満州入りしたのが昭和十四年。両親と長女の鈴木さん、弟、妹たちとの九人家族。戦時下の厳しい時代だったが、父は日本人学校の校長となり、一見、貧しいながらも平穏な生活を送っていた。しかし昭和二十年八月、突然の敗戦。当時十歳だった鈴木さんは学校古いラジオで玉
音放送を聞いた。意味が分からなかったが、涙を流している父の様子からとんでもない事態になったと感じたという。
日本の敗戦を知った中国人の一部が暴徒と化し日本人集落を襲う。鈴木さんの家も何度も襲われ、食料や家具など財産と呼べるものはほとんど略奪された。そして満州に進攻してきたソ連兵の監視の下、大虎山に設置された収容所での生活へ。連行される途中、いつの間に集まったのか大勢の中国人に囲まれ、「ニホン、マケタ、バカヤロー」と罵声(ばせい)を浴び、石を投げつけられた。屈辱的な経験だった。「戦争に負けるというのは、こういうものなのか」。当時十歳の鈴木さんは身をもって敗戦という事実をかみしめた。
収容所では過酷な生活が待っていた。日常的に行われる、ソ連兵の女性に対する暴行。劣悪な食糧事情による栄養失調、病気、シラミ…。九人いた鈴木さんの家族も相次いで病気などの犠牲になっていく。最初に妹の仲子ちゃん。三回目の誕生日その日に病気で息を引き取った。後を追うように生後三カ月の双子の赤ちゃん、公男ちゃんとクニ子ちゃんが亡くなった。 |
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| 満州にいたころの記念撮影。右から鈴木さん、死亡した仲子ちゃん、満君(昭和十七年ごろ)
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「お前なんて死ねばいい」
鈴木さんにとって一番つらかったのは、六歳の弟、満(みつる)君が亡くなったときだ。
当時、鈴木さん家族は大虎山の収容所を脱出し、錦州にある日本人が運営する難民収容所に非難していた。ソ連兵が管理していた収容所よりは環境がよくなったものの、生活は相変わらず厳しく、鈴木さんは町に出て中国人相手のたばこ売りをして辛うじて生活できる状態だった。
そんなある日、弟の満君がジフテリアに感染し寝たきり状態に。母は看病のためずっと病院、父はそのころ収容所の世話役として多忙で、働いてお金を稼ぐことができるのは鈴木さんだけだった。弟や妹の世話を一人でこなしながら、真冬の厳しい寒さの中、街角で一日中たばこを売る生活。心身ともに疲れきった鈴木さんは、ついに絶対に言ってはならない言葉をひん死の満君に浴びせてしまう。「みっちゃんなんか早く死んでしまえばいいんだ。そしたらみんなが助かるんだから―」。満君は澄んだ目で見返すだけだった。
その後、満君は回復することなく静かに息を引き取った。「どうしてあんなこと言ってしまったのか」。いくら悔やんでも悔やみきれなかった。
昭和二十一年五月。鈴木さんら家族は、満州からの引き揚げ船に乗ることができ、ようやく日本の土を踏んだ。しかし、九人いた家族は五人になっていた。
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自分史執筆を決意
鈴木さんは現在、神奈川県を中心に自分史教室を開催している。戦争体験を風化させてはならないと、約二十年前に、自身の戦争体験をつづった自分史「あの日夕焼け―母さんの太平洋戦争―」を出版。それがきっかけで自分史の朗読会や講演に呼ばれるようになり、自分史講師になった。
鈴木さんは呼び掛ける。「戦争体験者がだんだん少なくなってきています。私よりも悲惨な体験をした人も大勢いるでしょう。忘れたい気持ちは分かりますが、それでは戦争の本当の姿は次世代に伝わりません。肉親に話して聞かせるのでもいい。手記に残すのでもいい。戦争をなくすために、体験者は何らかの形で自身の体験を後世に残してほしい」。
講演依頼などの問い合わせは鈴木さんまで。TEL0466・33・1985(日中は不在の場合が多いため、夜のみ)。 |