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「モンゴルの美しくも厳しい大地に立つと、生きているという喜びがわいてきます」。毎年秋に8日前後、植林協力隊の一員として、池田さんは内モンゴル自治区に赴く。植林を行うのは九州の1・2倍の面
積を持ち、日本に一番近い砂漠のホルチン砂漠などで、砂地に強い松やカエデ、ポプラなどを植樹する。この活動は現地でも広く知られているという。「活動に参加できたのは弟たちの縁」と話す池田さん。その由来は終戦当時までさかのぼる。
弟たちに会うまで戦後は終わらない
昭和20年、当時7歳の池田さんは旧満州の延吉で終戦を迎えた。父親はシベリアに連行。池田さんは母親と3人のきょうだいとともに母国を目指した。しかし、出立間もなく二男の隆彦ちゃん=当時(5つ)=がチフスを発症、落命した。「隆彦は私よりも丈夫だったのに」と池田さん。小さな遺体は旧関東軍陸軍病院裏に埋葬した。
次いで、三男の勇ちゃん=当時(2つ)=までが、疲労と飢えから衰弱。栄養不足で母親の母乳も出ない中、幼い命は果
ててしまった。いつか供養できることを願い、池田さんは埋葬場所を探して冷たくなった勇ちゃんを背負い、荒野を2昼夜歩いた。結果
、奉天駅裏にあった変電所が目印になるよう埋葬した。
池田さんが母と妹の3人で日本に帰国できたのは昭和21年の秋。延吉を出発してから1年半が経過していた。
時は流れ、平成8年、定年を間近に控えた池田さんは、仕事上の知人から内モンゴル自治区で植林のボランティアがあることを知る。池田さんはプラント建設業の技術者として世界各地に工場を建設する一方で、「環境問題に対し、自分なりに責任を感じていた」ところだった。しかも、そこは亡き弟たちが眠る旧満州。弟たちに会うまで私の戦後は終わらない─。池田さんは参加を決意した。
終戦から55年目に長年の誓い果
たす
終戦から55年目の平成11年、4回目となる植林ボランティアに参加したとき、池田さんは当時の足跡を巡った。延吉では関東軍に召集された経験のある現地老人の案内で、隆彦ちゃんを埋葬した病院跡地を見つけた。当時の面
影はなかったが、その地に立つと記憶がよみがえり、胸が熱くなってきた。勇ちゃんを埋葬した奉天駅跡地も公安部員の協力で見つけることができた。池田さんは父母の品を置き、焼香、合掌して、また来ると誓った。
緑地が戻り鳥や虫も
帰国後、痴ほう状態の母親に報告したところ、「理解したのだと思います。涙を流して聞いていましたから」と池田さんは話す。
今年の秋も池田さんは内モンゴルへと赴く。ホルチン砂漠に加え、2年前からはゴビ砂漠での植林活動も始めた。これまでに同隊らが植林した本数は、延べ1千万本を数える。毎回30人前後の一隊が、1人につき約1000本植樹するが、そのすべてが根付くわけではない。それでも広大な砂漠の一角には緑地がよみがえり、鳥や虫も戻りつつある。「モンゴルのためだけでなく、日本を含む地球全体のために、これからも続けていきたい」と池田さんは話している。2人の弟が眠るこの大地に─。
「NPO沙漠植林ボランティア協会」は、4月から10月にかけて、複数隊の植林協力隊を派遣している。日程は約8日間で費用は各種基金も含め20万円ほど。
問い合わせは同協会事務局まで TEL 049・231・1010
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