坂のある街
 

 ファッションと若者の街・原宿。華やかなブランドショップが並ぶ表参道を一歩裏通 りに入ると、新旧バラエティー豊かなショップがひしめきあう商店街がある。そこには、かつて川があった。江戸時代から昭和まで流れていた川は、葛飾北斎の「富嶽三十六景 隠田の水車」にも描かれている。流行の発信地原宿の裏通 りに江戸の残照を訪ねた。
宅配便の配達の人もエッチラオッチラち台車を押していく=ネッコ坂
 北斎の絵を見て今の原宿を思い浮かべる人はほとんどいないだろう。そうそうと流れる川の水、勢いよく回る水車。洗濯桶をかかえた母と亀を連れて歩く子、肩に米袋らしきものを担いだ男の姿。遠くに富士山をのぞむ。江戸の農村風景である。
「穏田」の名は今も続く
 
 その川の正式名称は渋谷川。しかし土地っ子は今も「穏田川(おんでんがわ)」と呼ぶのだそうだ。江戸時代の穏田(昭和四十年、「神宮前」に改訂)はのどかな田園地帯で、「松平安藝守」や「水野石見守」の武家屋敷もおかれていた。
 穏田に生まれ育った商店会会長の佐藤銀重さん(七〇)が案内してくれた。「戦前の穏田川は、川遊びができるくらいきれいでね。台風が来るたびに水が溢れるような小さな川だった」。川は昭和三十九年の東京オリンピックの際、下水道整備を理由に暗きょとなり姿を消した。今は遊歩道となり、若者が闊歩している。
 北斎が描いた当時、水車は精米に活用していた。今でも商店街の米屋「小池精米店」では、その名も「穏田の水車」という米を販売。「古山商店」では店主手作りのミニ水車を売るなど、穏田の地名を大切に守っている。
 穏田にある坂は「ネッコ坂」。木の根のように曲がりくねっているからという。江戸時代には鎌倉街道の本道だった。当時の地図にも記載されている。「最近はここらへんをウラハラ(裏原宿の略)なんて呼ぶけど、昔はこちら側が表だったんだよ」と佐藤さん。
 遊歩道と住宅に挟まれるようにこんもりした木立がある。穏田神社だ。創建は詳らかではないが、徳川家康が関東の領主となって、伊賀衆に給地として与えたころの記録が残されている。
「富獄三十六景 隠田の水車」東京都江戸東京博物館所蔵。北斎画「隠田の水車」実際は富士を背に水車を描いたことが川の流れからわかる。北斎のいたずら心だ。「穏田」と「隠田」になった理由は謎。 水車場跡の今の風景。駐車場の下に、川は右から左へ流れていた。説明してくれた佐藤会長。
ルイ・ヴィトンも奉納
 
 同神社では昔から毎年九月八、九日(近年は九日に近い土日)に例祭を行ってきたが、バブルの頃の地価高騰で地元の人たちが次々と町から出て行き、人口が急激して祭礼の寄付金集金に苦労したという。最近になって、表参道にシャネルやイヴ・サンローラン、ルイ・ヴィトンなどの海外ブランド企業が続々と出店し、今年の祭礼にも各店舗が「神社のお祭りだったら」と快く寄付してくれた。また、近所に住む作家の筒井康隆氏も毎年多額の寄付金を出し、祭りの打ち上げにもひょいと顔を出すこともあるという。「バブルがはじけてからも人口は右肩下がりだね。住民が三、四万人いたころは、買い物は全部地元の穏田商店街ですませていた。つまり“おかず横丁”だったの。銭湯もたくさんあったよ。俺が小さい時、まだ売れてないジャイアント馬場がよく入ってきてさ、お湯がぜーんぶなくなっちゃったことがあったなぁ。また当時のように住みよい安全な街にしたい。子供たちにもこの街に愛着を持って欲しいしね」と佐藤さん。
 最近、佐藤さんの発案で商店街に防犯カメラをつけた。それまでは落書きやゆすりなどの犯罪が多かったが、今はほとんど無くなった。
「ほんの少しだけど、屋上で米を作っています」と小池精米店の店主・小池将雄さん
穏田川復活の声も出る
 
ブランド「シャネル」の店の横にはは、江戸時代に清流が流れていたが、今は暗きょになっている。
実は今、穏田川を復活させようという声がNPO団体からあがっている。
「おもしろい話だよね。時の流れを変えることなんてできない。人は時代の流れに沿って生きていくものだよ。そんななかでノスタルジアを感じさせる夢があるのはいいことだ」
 洋菓子店やブランド物のアパレルが並ぶ表参道から一歩奥に入った穏田には、時代の流れを受け止めて生きる人たちの生活の場があった。