坂のある街
 

昭和21年頃の
林芙美子
 女流作家・林芙美子は昭和5年、〈落合〉の住人となり、「遠き古里の山川を 思ひ出す心地するなり」と口ずさんだという。妙正寺川と神田川が落ち合うという意味の〈落合〉は、多くの作家が魅了された坂の街でもある。芙美子と往時の面影を求めて街を散策した。

 西武新宿線・地下鉄大江戸線中井駅から、徒歩数分。妙正寺川を背に山手通りのガード下から延びる「一の坂」、「二の坂(蘭塔坂)」に続いて、順に8つの坂がある。駅側から4番目にあるのが「四の坂」。右手に重厚な洋館の刑部邸、左手には「林芙美子記念館」。竹林から聞こえる葉ずれの音と鳥のさえずりだけの静寂に、一瞬、行き止まりかと錯覚するが、少し先に階段坂があった。かなり急な階段だが、「自動車は通らないし、手すりがあるので助かります」と言うのは林福江さん(78)=写真。坂上の自宅から、四の坂を下って、記念館に毎日通 っている。
 芙美子のめいに当たる福江さんにとって、現在の記念館はかつての自宅。日課は「朝夕の雨戸の開け閉めと、週に一度の花生け」。芙美子が上落合三ノ輪の借家に引っ越してきた昭和初期は、有名・無名の文士たちが集まり「落合文士村」を形成していたころ。5人姉弟の真ん中だった福江さんが、鹿児島から最初に上京してきたのはその少し後で、小学校3年生の時。既に、家は下落合の西洋館だった。近所には吉屋信子、尾崎一雄、片岡鉄兵らも居住していた。
 「放浪記」がベストセラーとなり、一躍人気女流作家となった芙美子だが、「料理はおいしかったし、五の坂でスキーをやったり。遠足の前日には、伊勢丹で珍しいお菓子を買ってくれた」そうだ。
朝からシニアが訪れ数寄屋造りの家や庭を見入っていた
 その後、西洋館を離れなければならなくなり、家を新築することになった。芙美子が理想としたのは「東西南北に風の吹き抜ける家」。建築に関する200冊もの参考書を買い求め、勉強し、設計者や大工を連れて京都の民家を見学したり、材木を見立てに行ったりしたという。そして客間よりも茶の間、風呂、かわや、台所に財も配慮も注ぎ込んだ数寄屋風の新居が四の坂に完成したのは昭和16年のことだった。
 その新しい家に、16歳の福江さんは再びやって来た。当時は建坪制限があり、「叔母の名義で生活棟を、叔父の緑敏名義でアトリエ棟を建てて、検査後に一軒につなぎ合わせた」という。祖母キクとともに茶の間を使っていたが、けんかもした。
 3度目の上京は昭和26年5月。ちょうどそのころ、山手通り最後の工事中だったため、出版社からの迎えの車はいつも坂上に来ていた。心臓が悪かった芙美子には「この急な坂はつらそうでした」。同年6月28日に亡くなる前日も、坂上から出掛け帰ってきた。
四の坂、左手に林芙美子記念館が見える
 記念館は、3年前からシルバー人材センターから派遣される4人のシニアが交代で屋敷の管理業務に当たっている。元高校の生物教師だった奥井利一さん(73)は、季節ごとに植物の写真を撮り、花暦のアルバムを作った。芙美子の夫の緑敏が山野草好きで、特に中部山岳地帯の植物を集めていたこともあり、「樹木は100、草花は200種類以上。野草園といってもいいくらい」と語る。また、数寄屋造りは関東では珍しく、建築家が見学に来たり、学生が研究のために訪れることもしばしばだ。
 どの季節にもそれぞれの表情があるが「桜の季節はいいわよ。散り始めると、座敷にまで花びらが舞って…」と、目を細めた。
 ■林芙美子記念館■ 一般150円、月曜休、午前10時〜午後4時半。
TEL 03・5996・9207