坂のある街
 
上)大龍寺、下)「年間300人ほどの見学客が来ます」と話す野口正見住職と子規の墓
 ことしは日露戦争開戦から100年。愛媛県松山市出身の軍人秋山好古、真之兄弟と俳人正岡子規の3人を中心に日露戦争や明治時代を描いた司馬遼太郎の大作「坂の上の雲」。同小説の最終章に忘れ難い名場面がある。ロシアのバルチック艦隊を日本海で破った日本海軍の名参謀、秋山真之が日露戦争後、親友だった正岡子規の墓参りをするシーンだ。このシーンの舞台となった北区田端の大龍寺周辺や台東区根岸の子規庵を訪ねた。
 秋山真之は、海戦の作戦のほとんどを考案したとされ、東郷平八郎元帥から「智謀わくがごとし」と称された。また、真之は名文家としても名高く、海戦突入を告げる際の電文「本日天気晴朗なれども波高し」の起草者としても有名だ。
 一方、正岡子規は明治期に俳句革新を行った俳人。若くして結核などを患い寝たきりになったが、34歳で亡くなるまで病床でユーモアあふれる随筆などを書き続けた。
 2人は松山時代からの友人で、上京後の一時期、一緒に下宿していたほどの間柄だった。「子規の妹、律は真之のことが好きだったという説があるほど家族ぐるみの付き合いだったようだ。ただ子規には軍人として外の世界で活躍する真之にうらやましい思いがあったのかも…」と子規庵保存会(台東区根岸)の渡部二郎さん(75)は話す。
 実際、真之のアメリカ留学を見送った後、子規は〈君を送りて思ふことあり蚊帳に泣く〉という句を残している。泣いたのは真之が遠くへ行く感傷からか、それとも自分は病床にいるという悔しさからだろうか。渡部さんが毎日手入れしている子規庵の庭を眺めながらそう考えた。
 同小説の最終章「雨の坂」で真之は、子規宅(現在の子規庵)から子規のぼだい寺、大龍寺まで3〜4キロの道のりを歩く。淡々と真之の行動を描いているだけなのだが、明治の激動を描いたこの長い物語の中でもひときわ情感が漂う場面だ。
 司馬遼太郎は「はるか北に荒川の川岸が望まれ、(中略)まるで広重の絵をみるようであった」と当時の田端の情景を記した。
 大龍寺は八幡坂に面した八幡神社の隣にあり、現在は住宅街に囲まれている。わずかに茂るケヤキやイチョウが往時をしのばせる。真之も墓参りの道すがら八幡坂を見上げたに違いない。その時何を思ったのだろうか。もしかしたら「坂の上の雲」の「坂」とは八幡坂のことかもしれない。
 大龍寺の16代目住職の野口正見さん(47)は、「当時この辺りには竹が多く生えていた。竹が好きだった子規が散歩でここを通りがかったとき、『自分が死んだらここに埋めてほしい』と言ったそうです」と話す。住職によると、当時、寺の前には旧街道が通り、まっすぐに上野の寛永寺までつながっていたという。根岸の子規庵から寛永寺の前を通り大龍寺へ。「子規や真之が歩いたのもこのコースでは」と野口住職。
 大龍寺本堂の左側奥に子規の墓はひっそりとたたずんでいた。両側に寝たきりだった子規を懸命に介護した母八重と妹律の墓が寄り添うように立つ。脇の石碑には子規が生前自分で考えた墓碑が刻まれている。
渡部二郎さん
〈正岡常規又ノ名ハ処之助又ノ名ハ升又ノ名ハ子規(中略)伊予松山ニ生レ東京根岸ニ住ス(中略)明治三十□年□月□日歿ス享年三十□月給四十円〉
 俳句革新で「写生」を唱えた子規らしくただ淡々と自分の名や出身地、勤め先などを記してあるだけだが、独特のユーモアがにじみ出た文章だ。月給まで細かく書いてあるところが何ともおかしい。
 大龍寺には当時の過去帳など子規に関連する資料があったはずだが、戦災で焼失してしまった。現在では、子規が病床で書いた随筆「墨汁一滴」の原本の一部や俳句が書かれた短冊数点(非公開)が残るのみだ。「子規には実子がいなく、今ではお墓を見守る人もいない。せめて当時の資料でももっと残っていれば…」と住職は残念そうに話した。