坂のある街
 

東京都が建てた標識
 

 東京都内には坂の名前が付いた地名がいくつかある。赤坂、道玄坂、神楽坂、そして柿の木坂である。環七通りの交差点から都立大学駅までの目黒通りが柿の木坂だ。高級車の走行が多い目黒通りの上には、東横線が軽快な音を残し、斜めにオーバークロスしている。そこには昔の柿の木坂をしのぶよすがもない。
 80年ほど前までは、現在の目黒区と世田谷区一帯は農地が多く、柿の木坂は収穫物を都心の市場へ運ぶ重要なルートであった。「柿の木坂」の由来は、坂のそばに柿の木があったから、という説や、農家が柿の実を出荷する際、悪童たちが車を押して手伝うと申し出て、ちゃっかり柿を取って逃げたことから「柿抜き坂」となったという説、また辺りに人家がなく寂しかったので「駆け抜け坂」と呼ばれたなどの諸説がある。
 1927(昭和2)年に、東京横浜電鉄(現・東急東横線)の渋谷−丸子多摩川間が開通する。開通当時、現在の都立大学駅より目黒通り近くに、柿の木坂駅があった。車両2両分の短いホーム、静かな郊外の駅だったようだ。やがてこの駅名は、旧府立高等学校の誘致により31年7月には「府立高等前」と改められたが、その1年後、目黒区が誕生した際に町名として「柿の木坂」の名は残ることとなった。地元の人にとって、愛着のある名前だったのだろう。


渋谷行きの電車が陸橋に さしかかる
(1954年10月撮影)
 

米店を経営する土地っ子の小杉良裕さん

  しかし、東横線の高架化事業と環七道路の整備で辺りは一変する。柿の木坂に面した米店の主人・小杉良裕さん(70)が、柿の木坂の周辺を切り崩して東横線を建設している写真を見せてくれた。小杉さんの父親が撮ったものだという。「40年に開催予定だったオリンピックに向けて目黒通りを完成させるはずだったのですが、結局64年の東京オリンピックまで道路の完成は延びて不便な思いをしました」と振り返る。柿の木坂の近辺には竹が多く生えており、タケノコが名産品だったとか。「もちろん柿の木もあちこちにあったので、子どものころはよく取って食べてましたよ」と話してくれた。
 また、70年ほど前から柿の木坂に住んでいる石田克巳さん(73)は、「子どものころは、(坂の)南側に普通の人、北側は海軍さんの住んでいる町と思っていました。休みの日に軍人に連れられた子どもを見るとうらやましくってね」と笑う。
 東横線が高架になる60年代までは都立大学駅から渋谷方面へ100メートルほどの所に陸橋があり、車や人通りが多かったそうだ。この橋は柿の木坂付近の住民が当時の鉄道省に提出した陳情により、立体交差道路となった。当時の柿の木坂の通行量はかなりのものだったようで、25年にはすでに自動車が1日30台以上走り、それとともに200台を超える牛車、12台の馬車、荷物運びの馬までが50頭近く、加えて人力車も走っていたというから驚きだ。そのため、踏切にするととんでもないことになる、と陳情書が作成されたのである。
 結局21年に策定された都市計画道路のうち「放射3号」と呼ばれた道路が、30年代に東横線で分断された部分を除いて出来上がり、改正道路と称された。終戦後の一時期はアメリカ式に“Cアベニュー”と名付けられ、標識もアメリカ式のものがついていたこともあった。その後、都市計画道路に愛称が付けられ、62年4月、現在の目黒通りとなった。