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  埼玉版 平成23年7月号  
バービーと関わった半生  川口市/宮塚文子さん

人形がかぶる帽子やバッグなどの小物にも、宮塚さんのアイデアが生かされている
着せ替えドレスを作り続けた洋裁師
 誕生から52年が過ぎた「バービー人形」。生まれてまもなく、その完璧なプロポーションにハイセンスなドレスをまとった人形は世界の女の子の憧れとなり、今も売れ続けている。そのバービー人形の着せ替えドレスを作り続けたのが川口市在住の宮塚文子さん(78)。今も、約1000体のバービー人形をコレクションしている宮塚さんの自宅を訪ね、誕生に関わった話を聞いた。

 「女の子の夢を実現」するというテーマで「バービー人形」を企画したのが米国の玩具会社「マテル」。繊維産業が盛んで労賃の安い日本に着目し、品質のよい人形を製作していた(株)国際貿易に生産を依頼した。だが、当時はまだ、着せ替え人形というものは世の中に存在していない。国際貿易も困って、バービー人形のドレス担当として採用したのが洋裁をやっていた25歳の宮塚さんだった。

 「ミシンの上手な人ということで声がかかったようです。人形より人間の洋服を続けたかった私は紹介者への義理で面接を受けたのですが、入社することになりました。気持ちが変わったのは面接官だった部長の人柄に感銘したからです」と振り返る。

 入社まもない宮塚さんが社長らとともに羽田空港にマテル関係者を迎えに行くと、そこに現れたのが、まるで“バービー”のような若いアメリカ人女性だった。宮塚さんはその人、シャーロット・ジョンソンさんと帝国ホテルの1室にこもってバービー人形に着せるドレスの試作品を作ることになった。

 ただ、お互いに相手の国の言葉が話せない。宮塚さんは英語の辞書を5冊用意したが、ほとんど辞書を頼らずに済んだという。世界で初めて、というプロジェクトを一緒に携わっていたからか、身振り手振りを交えながらでコミュニケーションが通じた。

 マテルの要求は厳しかったが、自分を同じ開発チームの一員として扱ってくれるマテル関係者に好意を感じ、その期待に応えようと、宮塚さんは仕事への使命感に燃えた。

 ジョンソンさんとの共同作業は休日を除き午前9時から午後5時まで。しかし、宮塚さんは帝国ホテルを出ると、神田にあった国際貿易事務所に。そこで深夜0時ころまで仕事をし、川口の自宅まで終電で帰る日々。帰宅してからも、やり残した課題に取り組み、家族は今に体を壊すのでは、と心配していたという。休日も仕事をする宮塚さんを見て母からは「仕事の鬼になった」と言われた。それでも、宮塚さんは、「毎日が楽しかった」と笑顔を見せる。

 1932(昭和7)年8月川口市生まれの宮塚さんは女学校卒業後、自動車修理会社に勤めたが、まもなく退職。母から「手に職を付けたら」と勧められて始めたのが洋裁だった。洋裁の経験はなかったが、「何にでものめり込む」性格の宮塚さんは人一倍勉強して、東京の洋裁店に勤めるようになった。


結婚衣装をまとったケン(左)とバービー
22時間働くモーレツ社員
 そうした矢先、バービー人形の声がかかったのである。

 1年間続いた帝国ホテルでのバービー人形のドレス開発は、ドレス22点と水着1点を数えた。ドレスの開発はまず、柔らかい人形のボディーに合わせて生地を巻きつけながら2人でイメージを思い描きデザインを考えることから作業が始まる。デザインが決まるとジョンソンさんが布をカットし宮塚さんがそれを縫う。調整を加えながら、仮縫いした上下のドレスが完成すると、再びそれを縫う前に戻して型紙を作る。こうして作られた型紙をもとに工場で人形のドレスが大量生産されるのである。

 しわやたるみが出ない、人形の体にぴったり合った服を作るために誤差は許されなかった。工場で大量生産されたドレスは型紙と0.5ミリ以内の誤差でないと製品として出されなかったという。「1日22時間くらい働きました。今、54キロある体重は当時、39キロ以上太りませんでした」と宮塚さん。

 社内でも限られた幹部しかバービー人形の開発は知らされておらず、宮塚さんは社内で孤立しがちだった。それでも頑張れたのは「使命感と仕事が好きだったから」と宮塚さん。

 帰国したジョンソンさんの後、宮塚さんはバービー人形のドレス責任者として工場でのミスが出ないように取り仕切ることになったが、29歳で結婚後、63年に7年勤めた国際貿易を退社。まもなく独立して人形服専門の縫製会社「宮塚縫製」を設立、バービー人形のドレスなどを請け負うことになった。

 71年、バービー人形の生産国が日本から韓国に移ることになったが、宮塚さんは夫とともにリカちゃん人形やモンチッチなどの仕事を続け、人形一筋の人生を歩んできた。

 だが、8年前に夫が亡くなったのを機に縫製の仕事を辞め、習字や写真を始めた。仕事は引退したが今も、「何事にものめりこむ」という宮塚さんの姿勢は変わらない。

「バービーと私」
 高度成長期に入った時代を背景に、当時“安かろう悪かろう”といわれた日本製品を世界水準に押し上げた輸出品の1つ、バービー人形に関わった、宮塚さんの一代記。
(1680円、亜紀書房)

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