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  東京版 令和3年3月下旬号  
審判の世界知って…、野球をもっと面白く  元プロ野球審判員・山崎夏生さん

山崎さんの勲章は選手や審判がプロ野球に10年在籍するともらえる「10年バッジ」。「このバッジを見せればセ・パの公式戦からオールスター、日本シリーズまで全てのプロ野球試合に招待されます」。バッジには2582番の数字が打たれている。「プロ野球が生まれて今年で85周年。その間在籍した選手と審判は延べ1万人強。私が引退した時点で10年在籍できた人は2582人しかいないということになります」
執筆や講演など精力的に活動
 鮮やかなグリーンの芝生に彩られたグラウンド上で華麗なプレーを見せるプロ野球のスター選手たち。そんな選手の一瞬のプレーに判定を下しているのが審判員だ。ファンやマスコミから注目される選手に比べ、試合を支える重責を担いながら“縁の下の力持ち”的存在の審判員。そうした「審判員の実態を知ってもらいたい」と講演や執筆活動に精力的に取り組んでいるのが元プロ野球審判員の山崎夏生さん(65)だ。29年間の審判員生活で一軍公式戦1451試合に出場したキャリアを持つ山崎さんは、「審判のことを知れば、もっと野球が面白くなります」と話す。

 1982年、パ・リーグ (パシフィック・リーグ)審判員として採用された山崎さん。2010年に現役を引退してからはヒノン野球機構(NPB)審判技術指導員を8年務め、後進の育成に努めてきた。そんな山崎さんが「審判応援団長」を自任して講演や執筆活動を本格的に始めたのは、審判技術指導員を辞めた後。スポットライトを浴びやすい選手に比べて、地味な審判はその存在がよく知られていないと感じてきたからだ。

 「NPBにいるときから、世間の人に審判の世界を知ってもらいたいと思っていました。フリーになってからは“言論の自由を得た”という感じです」。新聞などへの執筆やテレビ出演も行い、昨年、2冊目の著書「全球入魂! プロ野球審判の真実」(北海道新聞社刊)を出版した。年間約60回こなしていた講演はコロナ禍で激減したが、代わってウェブ会議システムZoomやユーチューブによる講演を増やしている。

合格ラインは99点
 山崎さんはプロ野球審判員の厳しさについてこう話す。「審判は即断即決で正解を出さないといけない仕事。選手は打率3割などで評価されますが、審判の合格ラインは100点満点で99点なんです」。審判の下した判定に納得いかない監督や選手、あるいは球場で観戦しているファンからのやじや罵声を浴びることもしばしば。自らの現役時代を振り返り、「苦しかったことが9割でした。だからこそ、会心の判定ができたときに感じる喜びは大きかったですね」。

 29年間の審判生活で山崎さんの思い出深い選手や試合は数多い。投手ではアンダースローの山田久志(阪急ブレーブス)が投げるカーブに驚き、松坂大輔(西武ライオンズ)のスライダーの威力を実感、ダルビッシュ有(北海道日本ハムファイターズ)の“高速変化球”をなかなか見極めきれなかったという苦い思い出も。野手ではイチロー(オリックス・ブルーウェーブ)や稲葉篤紀(北海道日本ハムファイターズ)などが強く印象に残っている。試合では、イチローの初ホームラン(93年、新潟県長岡市悠久山野球場)。この試合で一塁審判を務めていた山崎さんは、打たれた野茂英雄(近鉄バファローズ)のぶぜんとした表情が思い出深いという。

 今では「生まれ変われるとしたら、もう一度やりたいと思うくらい審判が好き」と言う山崎さん。「審判になりたい」と思ったのは26歳のときと、遅かった。きっかけは、後楽園球場(現・東京ドーム)で行われた「日本ハム対巨人」の日本シリーズを見たこと。「試合中の審判の姿がまるでクラシックコンサートの指揮者のようで、かっこよかった。プレーボールから、ストライク、ボールやセーフ、アウト、ゲームセットまで、試合の全てを彼らが仕切っている、と感じました」

 新潟県上越市に生まれ、子どものころから野球を始め、プロを目指し大学(北海道大学文学部)まで野球を続けていた山崎さん。もちろん審判の存在を知らなかったわけではない。「審判なんて野球が下手な人がやるもんだと思っていたんです。しかしこの試合を見て、審判をやってみたいという気持ちに変わりました」。このとき日刊スポーツ新聞社東京本社に勤めて3年目。結婚して子どももいたが、その安定した仕事を投げ打って、今まで経験したことがない審判の仕事に転じようかと悩んだ。

「脱サラ」し挑戦
 そのころ、山崎さんは心中、悶々(もんもん)としながら過ごしていた。大学卒業を前にプロ野球選手になる夢を断念し、「それならスポーツ新聞でプロ野球担当記者になろう」と入社したものの、配属されたのが営業職。記者への転属を会社に希望したものの聞き入れてもらえなかった。熟慮した結果、「どうしても審判になりたい」と思った山崎さんの行動は早かった。名刺1枚を持って、いきなりパ・リーグ会長の事務所を訪ね、直談判した。しかし、当然ながら門前払い。そこで山崎さんは思い切った行動に出る。“背水の陣”とばかり翌日、勤めていた新聞社に辞表を出した。その日から体を鍛え直し、250ページものルールブックを暗記、現役審判員の自宅でアンパイアとしての技術を教わる毎日。そして2カ月後、再びパ・リーグ会長のもとへ―。そんな情熱が通じ、“特例中の特例”として阪急の高知キャンプへの参加が認められた。そのキャンプで頑張った山崎さんはテスト生として採用。年収は前職の約半分に減ったものの、妻も働いて生活を支えてくれ、8年後に一軍の審判を務めるようになった。その後1試合1試合を順調に積み重ねたが、一流審判のステータスとなる一軍出場1000試合が目前だったときに、40代半ばで二軍落ちの憂き目にあう。開幕早々、3試合続けてミスジャッジをし、退場騒ぎを引き起こしたからだ。そのころは、「もう大丈夫」という慢心から審判としての鍛錬を怠るようになり、試合開始直前までパチンコをしたり、試合前日なのに夜遅くまで酒を飲んだりしていたという。

 二軍落ちで一時、心がくじけそうになったが「自分は野球が好きなんだ」と思い直し、基本に戻って努力する。ほかの人よりも早めにグラウンドへ行って走り込んで体力づくりに励み、ブルペンで投球練習を見ながらボールに対する感覚を磨く―。そんな姿勢が認められ、1年後には一軍の舞台に復帰することができた。

 素人からプロ野球審判の世界に飛び込み、パ・リーグ審判員として29年、NPB審判技術指導員として8年務めた。そんな経験から、自らが学んだことを「次世代に伝えていきたい」と話す山崎さん。最近、ボランティアで小・中学校から高校、大学、草野球までアマチュア野球の審判を務めるようになった。「明るく、楽しく、元気のいい姿を見せて、審判ってあんなに面白いんだな、とアピールしたい」

「全球入魂! プロ野球審判の真実」 山崎夏生著
 プロ野球審判員の仕事や現状、選手とのエピソード、著者の野球論、球界への問題提起も含めた内容で、プロ野球審判員の世界を知ることができる。
(北海道新聞社 ・1430円)

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